本ページはプロモーションが含まれています
春申君とは何者なのか?
結論から言うと、本名を黄歇(こうかつ)という楚の宰相です。食客3千人を抱えた戦国四君の最後の一人で、合従軍では総大将を務め、最後は自分の食客だった李園に暗殺されます。
作中では、口が悪くて威張っている人として出てきます。臨武君を「ハゲ」と呼び、オルドには「どこがだバカ!単純明快だろバカ!」と二度もぶつけました。ところがその同じ人が、李牧と並んで秦の狙いに最初に気づいています。この記事では、宰相になるまでの経緯から暗殺までを、作中と史実の両方から追います。
この記事でわかること
- 本名が黄歇であることと、宰相になった経緯
- 作中の描写と史実の記録がどこでずれているか
- 李牧が総大将の座を春申君に譲った理由
- 口の悪さの裏にあったもの(カイの読み)
本名は黄歇。太子完を秦から逃がして宰相になりました
春申君は称号で、本名は姓が黄、諱が歇です。合わせて黄歇と読みます。
紀元前273年、秦と楚の和平の証として、太子完が人質として秦へ送られます。黄歇はその侍従として付いていきました。ここから話が動きます。
王が倒れた年に、太子を国へ帰しました
紀元前264年、楚で頃襄王が病に倒れます。太子が国にいなければ、王位は別の誰かに渡ってしまう。黄歇は秦の宰相・范雎に掛け合いましたが、昭襄王は帰国を認めませんでした。
そこで黄歇は、太子完を勝手に楚へ逃がします。自分は秦に残りました。昭襄王は当然怒りますが、死を覚悟した黄歇の態度に感服し、代わりに考烈王の弟を人質とすることで収まります。
史実では、このとき人質として残された公子顛が、のちのキングダムの昌文君にあたるとされています。作中でそう明言される場面はありませんが、昌平君が楚の王族だと分かっている以上、無関係とも言い切れない線です。
太子完は無事に王位を継いで考烈王となりました。紀元前262年、その元年に黄歇は令尹(宰相)へ任じられ、春申君と名乗ることになります。
僕はこう読む
宰相になった理由が、戦での手柄ではなく人質の逃がし方だったところが面白いと思っています。
しかも逃がしたあと、自分は秦に残って怒りを一身に受けています。
作中の威張った姿からは想像しづらい引き受け方です。
口の悪さは、この一件のあとに身についたものかもしれないと読んでいます。
作中の春申君と、史実の春申君
キングダムは史実をなぞりつつ、人物の見せ方を変えています。春申君はその差が分かりやすい一人です。
| 見るところ | 作中 | 史実 |
|---|---|---|
| 合従軍での役目 | 総大将。李牧が参謀 | 五国の合従軍を率い、函谷関で敗退 |
| 宰相を務めた年数 | 20年 | 紀元前262年から238年まで、約24年 |
| 合従軍の顔ぶれ | 六国で組み、斉が開戦前に抜ける | 楚・趙・魏・韓・燕の五国 |
| 李牧との関係 | 密談から合従軍が始まる | 接点の記録は残っていない |
| 食客の数 | 3千人 | 3千人。上客は珠で飾った履を履いていた |
| 最期 | 食客の李園に暗殺される | 紀元前238年、棘門で刺客に殺害 |
史実の合従軍に斉がいないことと、作中で斉が開戦前に抜けることは、同じ結果を別の手順で描いたものです。李牧との密談だけが、記録に無い部分にあたります。
僕はこう読む
原泰久先生が足したのは、春申君が自分で気づいた、という一点だと思っています。
史実の春申君は合従軍を率いた人で、なぜ率いたかまでは残っていません。
そこに「山陽の一手」を読み切る目を与えたので、口の悪さが無能の証拠ではなくなりました。
威張っている人を、ただの噛ませ犬にしなかった足し算だと読んでいます。
李牧が総大将を譲った理由
合従軍の発案は李牧です。それなのに総大将は春申君で、李牧は参謀に回りました。
理由ははっきりしています。李牧が総大将になると、六国の連合ではなく趙の軍に見えてしまうからです。不平が出れば連合は動かなくなります。戦国四君の一人が上に立てば、誰もが六国は平等だと納得する。その計算でした。
春申君が李牧を評した言葉が残っています。「あの男は想像していたよりも恐ろしい男だぞ」。楚趙同盟の密談だと周りが思っていた場で、話は六国の合従軍にまで及んでいました。
僕はこう読む
李牧が春申君を担いだのは、扱いやすいからではなく看板になるからだと読んでいます。
総大将の椅子は名誉ですが、負けたときに責めを負う席でもあります。
実際、敗戦後に矢面へ立たされたのは春申君でした。
李牧は勝ち方だけでなく、負けたときの座り位置まで決めていたことになります。
口の悪さの裏にあった、先を読む力
春申君の言動は、正直かなり悪いです。各国の総大将を前にして「俺はお前らのケツを蹴って回る役についただけだ」と言い放ちます。臨武君が騰に討たれたと聞いても「ハゲがしくじったか」で終わりました。汗明の討死を聞いたときは、怒りにまかせて戦略盤を蹴り上げています。
それでも、秦が魏の山陽を取って東郡と改めた意味を読んだのは、李牧と春申君だけでした。「詰みの手をうってきたなら、その盤場を叩きつぶすのが一番だ」という言葉が、そのまま合従軍の方針になっています。
僕はこう読む
「ハゲがしくじったか」を冷酷さだと読むと、たぶん半分外れます。
春申君は部下にも自分にも、負けた者への言い訳を用意しない書かれ方をしています。
敗戦後に斉へ八つ当たりで攻め込むのも、収まりのつけ方を知らないからです。
口の悪さは性格というより、感情の逃がし方を持たない人の形だと思っています。
最後は食客の李園に暗殺されます
紀元前238年、考烈王が病死します。葬儀へ向かう春申君は、棘門で待ち伏せていた刺客に、従者もろとも殺されました。差し向けたのは李園。かつて自分の食客だった男です。
警告は届いていました。同じく食客だった朱英が、李園は危ないから先に手を打つよう進言しています。春申君はこれを聞き入れませんでした。朱英はそのまま逃げ出しています。
3千人の食客を抱えた人が、その食客に殺されました。李園が何を狙っていたのかは、別の記事で追っています。
僕はこう読む
秦の昭襄王の怒りは正面から受けた人が、身内の一人を読み違えて死んでいます。
国の話には手が届き、手元の話には届きませんでした。
朱英の忠告を退けたのは、油断ではなく自負だったと思っています。
3千人を抱えるというのは、3千人を見抜けると思うことでもあったはずです。
まとめ
春申君は、戦の手柄ではなく人質の逃がし方で宰相になり、合従軍の総大将まで上り、手元の食客に殺された人でした。
この記事で追った決め手を並べます。
- 本名は黄歇。春申君は宰相になってからの称号
- 紀元前264年、太子完を秦から逃がし、自分は残って怒りを受けた
- 紀元前262年に令尹へ任じられ、史実では約24年務めた
- 合従軍の総大将になったのは、六国が平等に見えるようにする李牧の計算
- 「詰みの手をうってきたなら、その盤場を叩きつぶすのが一番だ」と読み切った
- 紀元前238年、棘門で李園の刺客に殺害された
僕はこう読む
春申君を調べていていちばん引っかかるのは、春申君が一度も戦で勝っていないことです。
宰相の座も、合従軍の総大将の席も、戦果で取ったものではありません。
それでも中華全土に名が知られ、六国が総大将として仰ぎました。
武で並ぶ将が多いこの作品に、こういう上がり方をした人を置いたのが効いていると思っています。
春申君を口の悪い凡将と見るか、秦の狙いを読み切った宰相と見るかで、合従軍の始まり方が違って見えます。
——あなたは春申君を、威張っていただけの人だと思いますか。それとも李牧と並んで秦を読み切った宰相だと思いますか。よければコメントで、どちらに近いか教えてください。
よくある質問
黄歇という本名と、宰相を務めた年数でつまずく人が多いようです。細かいところをまとめました。
Q. 春申君の本名は何ですか
A. 黄歇(こうかつ)です。姓が黄、諱が歇にあたります。春申君は、太子完を逃がした功で令尹に任じられたあとの称号です。
Q. 春申君はなぜ合従軍の総大将になったのですか
A. 李牧が譲ったためです。李牧が総大将になると趙の軍に見えてしまい、六国の連合として機能しなくなります。戦国四君の一人が立てば全員が平等だと納得する、という計算でした。
Q. 春申君は誰に殺されたのですか
A. 自分の食客だった李園です。紀元前238年、考烈王の葬儀へ向かう途中、棘門で待ち伏せていた刺客に従者もろとも殺害されました。食客の朱英から警告を受けていましたが、聞き入れていません。
楚を率いた英雄の最期です。暗殺した李園や、合従軍の裏切りと無能の5将も置きました。
暗殺した側李園(りえん)とは何者か?春申君を暗殺した楚の宰相で、41巻で媧燐と並び立つ!暗殺の首謀者は、楚を牛耳った李園でした。
抜けた一国蔡沢(さいたく)とは何者か?合従軍の裏切り者・斉を抜けさせ、45巻489話で死去!総大将の下で、斉は開戦前に抜けています。
指揮下の5将合従軍で無能だったのは誰か?残念な5将のランキングと、李牧が無能ではない理由!指揮した合従軍の無能5将のランキングです。
この記事を書いた人:カイ。読み終わったあとの「なんでここ、こう描いたんだろう」を、一人で考えています。→ 運営者情報
最終更新:2026年9月22日


コメントを残す