【キングダム】蒙恬は死なない!?史実で見る驚きの最期と楽華隊の運命とは? | 漫画コミック考察ブログ

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【キングダム】蒙恬は死なない!?史実で見る驚きの最期と楽華隊の運命とは?

キングダム 蒙恬 蒙恬の悲劇
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この記事を読むとわかること
  • 蒙恬は文官志望を公言した
  • 楽華隊で影の立役者として活躍
  • 嘘の情報で士気を回復させた驚きの策

その顔立ちと気立ての良さ、何より神算鬼謀とも思われる知力からキングダム内でも人気のあるキャラクターの蒙恬

史実ではどのような人物だったのでしょうか?

そして、どのような最期を迎えるのでしょうか?

 

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【キングダム】武の名門蒙家の長男

蒙恬の祖父蒙驁と父の蒙武は共に秦国の大将軍にまで上りつめた武将です。

蒙驁は白老と呼ばれ中華にもその名を知られています。

父の蒙武は言わずと知れた、秦国一の武力の持ち主です。

元々、祖父蒙驁は斉国の出身ですが、出世を夢見て士官しますが、斉では芽が出ず、それから蒙武を連れて色々な国を回ります。

ですが、中々思うようにいかず、最後にたどり着いた国、秦にて少しずつ芽が出始めます。

そしてついには大将軍にまで出世したのです。

蒙恬は二人に続き大将軍を目指しているのかよくわからない部分があり、文官を目指すと公言している場面もあります。

いったいどっちをめざしているのでしょうか??

蒙恬の実力、功績から言えば、いずれは大将軍も夢ではないと思うのですが・・・

王賁と蒙恬は、信から政が六将復活を考えていると聞いた時、三人とも六将に割って入るような感じで話してましたね。

のらりくらりとしていますが、しっかりとその野心は持っているのですね。

もしかしたら、父蒙武との親子六将を夢見ていたりするかもですね!

 

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【キングダム】軍師学校を首席で卒業

蒙恬の特徴としては武力よりも知力が優れている武将です。

勿論、剣もかなりの腕前で隊の先頭に自ら立ち、敵の中へ突き進む場面も多々ありますが、敵を策にはめ、倒していくイメージの方が強いです。

昌平君の軍師学校を首席で卒業しており、師である昌平君からも、底がしれないと言わしめる程の知力の持ち主です。

弟の蒙毅も昌平君の軍師学校に在籍し成績優秀で知られています

あの武力のみの蒙武の息子がどちらも知力タイプというのはどんな遺伝子?と思ってしまいます。

きっと母親似なのでしょうね!

母親は作中では出てきませんが、さぞかし頭のいい美女だったのでしょう。

 

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【キングダム】楽華隊を率いて功績を挙げる

作中で初めて出てきたのは三百人将の時で楽華隊を率いていました。

実はこの時既に千人将になっていたのですが、祖父蒙驁の指示により三百人将として修行をしていました

信や王賁のように将を討ち取るといった武勲はあまりありませんが、要所でその戦いの結果に多大な影響を及ぼす程の大事な働きをしてくれます。

魏の山陽戦での敵将輪虎を討ち取る策を立て、その潰れ役を楽華隊で請け負った事、合従軍での楚将白麗の弓の脅威を即座に感じ取り、執拗に追い、深手を負わせた事、同じく合従軍戦で楚将媧燐の襲撃から本陣を守ったりと、影の立役者的な感じですね。

もしくは縁の下の力持ちって感じでしょうか。

敵将を討ち取り、五千人将になった信や王賁と同じく、趙の鄴攻めの時には五千人将に上りつめていました

 

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【キングダム】朱海平原の戦いでは秦左翼の大将

鄴攻めの最激戦区となった朱海平原の戦いでは左翼に配置され、見事に総大将王翦の期待に答え、趙右翼を翻弄し、麻鉱軍の波状攻撃に繋げます。

しかし、李牧単独の奇襲により麻鉱が討たれると、形成は逆転し麻鉱軍が一気に崩れ始めます。

麻鉱軍の崩壊はもうとめられない・・・河了貂や麻鉱軍の将達でさえそう思っていました。

しかし、蒙恬だけは麻鉱軍の崩壊はまだ止められると思っていたのです。

理由は、麻鉱軍は個人個人が練兵に練兵を重ねた屈強な戦士で、その強さがあればなんとかなると思ったのです。

蒙恬は麻鉱軍に、麻鉱は生きていると嘘の情報を流して、敵陣に飛信隊と部下の陸仙を突撃させ、拠点を作り麻鉱軍の旗を掲げさせます。

そうする事で今まで劣勢だった麻鉱軍兵に士気が戻ってきます。

蒙恬は嘘の情報で士気の低下を止め、旗を掲げる事で勇気を湧かせたかったのではないでしょうか。

もうだめだと思っている中で、対抗できる味方がまだいたんだ!と思えれば力が湧いてくるものですもんね。

そして極めつけは自兵が窮地に陥った時に麻鉱が掛けていた言葉、

立って戦え!

士気の低下が止まり、まだ戦えると希望を抱き始めた麻鉱兵達はこの言葉を聞いて完全に士気が爆発します!

趙右翼軍で一番厄介な武将だった馬呈は必ず飛信隊が作った拠点に向かうと読んでいた蒙恬は飛信隊に馬呈軍が近づいてきたらなるべくこの乱戦から引き離すよう指示を出していました。

そして、馬呈が十分遠のいたのを確認すると陸仙の拠点に楽華隊本体を突入させ麻鉱軍の左半分を復活させるのです。

圧倒的戦力差の中で、第一陣で趙右翼を翻弄し、麻鉱軍壊滅の危機を救った神算鬼謀、読み、統率力、既に将軍としての資質は十分に備えている事を証明しましたね。

この事から秦軍総大将王翦はこの鄴攻めの間だけの期間限定ではありますが、蒙恬を将軍に格上げし、正式に秦左翼の大将として指揮を取らせるのです。

 

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【キングダム】史実では優秀は文官

作中では序盤の三百人将の時点で戦場に登場してきますが、史実での戦場初登場は信のモデルの李信の副将として楚を攻めた時です。

この時点で趙、韓、魏は滅ぼされており、残るは楚、燕、斉の三国のみでした。

蒙恬は史実では法律を学んでおり、裁判に関わる仕事をしていました。

いわゆる文官です。

この事実から原先生は作中の蒙恬を、文官を希望している部分を含みつつ、蒙武のようなゴリゴリマッチョにはしなかったのでしょうね。

 

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【キングダム】箔をつけるため出撃後も大活躍!

李信の副将として楚を攻めた蒙恬。

待ち受けるは楚の大将軍項燕

李信と蒙恬軍は総勢二十万の軍勢で攻め込みます。

実はこの戦いの前に秦王政は李信と王翦にそれぞれ楚を落とすにはどの位兵数は必要か訪ねます。

李信が二十万で落とせると言ったのに対し、王翦は六十万必要と進言します。

政は二十万で落とせると言った李信にこの戦いの総大将を任せたのです。

李信と蒙恬は二十万を二手に分け、別々に攻め込みます

それぞれが連戦連勝で合流先の城父まできます。

これまでの連勝から、完全に浮かれ油断していた李信と蒙恬。

どれほどの強者でも勝ち続けると少なからず油断が生まれる・・・

項燕はわざと負け続け秦軍を油断させたかったのです。

キングダムでは信はともかく蒙恬が油断するっていうのは少し考えにくいですが、史実では浮かれまくっていたようですね。

そして項燕の狙い通り油断していた秦軍は城父にて楚軍三十万の襲撃を受け、壊滅状態になってしまいます

李信と蒙恬は命からがらなんとか秦へ逃れます。

そのまま項燕軍は秦へ攻め込み函谷関で王翦と蒙武軍に敗れてしまいます。

敗れた楚軍は立て直す戦力は既に無く滅んでしまうのです。

さすがは王翦といったところでしょうか。

この戦いで大敗した李信と蒙恬ですが、よほど秦王政から気に入られていたのか何もお咎めなしだったようです。

桓騎は大敗したことで逃亡したくらいなのに・・・

いつの時代もえこひいきってあるもんですね(笑)

その後、何も功績もないまま蒙恬は将軍になります

将軍となってからは多大な功績を残します

李信、王賁、蒙恬の三軍で六国最後の国、斉を攻めます

斉の降伏により秦は中華統一を成したのです。

中華統一後、三十万の軍勢で匈奴を倒し、オルドス地方を奪回するのです。

匈奴は蒙恬がいる間、その防衛を突破する事が出来なかったそうです。

ちなみに蒙恬が作中のようにイケメンだったという記述は一切ありません(笑)

 

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【キングダム】始皇帝の腹心となる

蒙恬は万里の長城建設や始皇帝巡業の為の道路開設の指揮を取り、将軍、文官どちらでも始皇帝の信頼が厚かったようですね。

家柄や始皇帝のお気に入りかどうかの問題もありますが、そもそもかなりの能力があってこそなのは間違いないかと思います。

万里の長城建設は不正役人や罪人が多く働かされていました。

そんなクセのある多くの人間を上手く使いこなし建設を進めていたのです。

このあたりの統率力はキングダムでの蒙恬と通ずるものがありますね

弟の蒙毅も文官としての能力が高い人物で、兄弟そろって始皇帝に認められ気に入られていたのです。

 

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【キングダム】始皇帝死後にライバルに嵌められ自殺

万里の長城建設中に太子扶蘇が蒙恬のいる国境の付近に左遷されてきます。

何故、太子扶蘇が蒙恬の元へ左遷されたのか?

有力な説が二つあります。

一つは蒙恬の監視役です。

三十万の兵力を有する蒙恬が反乱を起こさないとも限らないと思われ、その監視をするのが扶蘇の役目だったという説。

どちらかというと2つ目の説が有力ですが、太子扶蘇は父である始皇帝の行った政策、抗儒に意見した為、始皇帝の怒りを買い左遷された為という説。

扶蘇が左遷されて五年後、始皇帝が巡業中に死亡します。

その時、始皇帝の末っ子胡亥と宰相の座に就いていた李斯、そして始皇帝のお気に入りの一人だった趙高は始皇帝の死を隠し、急ぎ王都へ戻り、

なんと遺書の偽造をしてしますのです。

偽造された遺書には「扶蘇と蒙恬に自害を命ずる」というものでした。

なんで?

二人共そう思ったはずで、蒙恬は怪しみこの遺書が真実かどうか確認できるまで自害を思い留まります。

しかし扶蘇は遺書の内容を受け入れ自害をしてしまいます。

こんなにあっさりと受け入れるあたり、扶蘇は始皇帝に嫌われていたのでは?となるとやはり左遷は2つ目の説が、大分説得力がでてきますね。

扶蘇の死後も最後まで自害を受け入れなかった蒙恬でしたが、胡亥が皇帝の座に就くとあらためて自害の命が下り、勅命ならばと自害を受け入れ、命を断ってしまいます。

その後、蒙毅も趙高によって殺され、蒙驁の時代から栄華を誇った蒙家一族は権力争いによってその血筋は途絶えてしまうのです。

そして秦国は権力にまみれた人間しか残らなったせいでしょうか、楚の項燕の孫、項羽によって滅ぼされてしますのです。

始皇帝の死後は李信や王翦、王賁などの活躍は全くなく、恐らくは既に亡くなっていたと思われます。

始皇帝の死後まで生きていて、有能な将だった蒙恬、彼の死が秦滅亡を早めたのは間違いないかもしれませんね。

 

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まとめ

史実より大分脚色されていたようですが、将としても実力があり、文官のように頭を使う仕事もきっちりこなせたというのは史実と同じでしたね。

家柄かお気に入り具合で将軍になれた感はありますが、能力が高かったのは間違いなかったように思えます。

権力争いに巻き込まれ、敗北し、無念の死を遂げた蒙恬。

キングダムではどこまで描かれるのか分かりませんが、史実のような無念の死は勘弁してもらいたいと思う次第です。

そして一番残念だったのはイケメンという事実がなかった事でしょうか(笑)。

この記事のまとめ
  • 蒙恬は武力より知力優位です
  • 楽華隊で影の立役者です
  • 朱海平原戦で士気を回復
  • 史実では文官として活躍
  • 始皇帝の信任厚く将軍に
  • 権力争いで無念の最期です
あいり
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