【キングダム】白起(はくき)の驚愕の強さと最期!趙の怨みを生んだ長平の戦いとは? | 漫画コミック考察ブログ

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【キングダム】白起(はくき)の驚愕の強さと最期!趙の怨みを生んだ長平の戦いとは?

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この記事を読むとわかること
  • 白起は生涯で約70の城を陥落させた。
  • 長平の戦いで40万人を生き埋めにした。
  • 廉頗が白起を最もやりにくい相手と評価した。

キングダムでは秦国六大将軍筆頭として描かれている白起

彼は中国の歴史上でも最強の武人として名が挙げられる大将軍でしたが、時の王に死を宣告されてしまいます。

また古代中国最大の戦い・長平の戦いで白起は40万人を生き埋めにします。

白起とはどんな人物なのか・・・、調べてみました。

 

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【キングダム】六大将軍とは?

キングダムの中では、政の曽祖父である昭襄王(昭王)の時代に強すぎた6人が、動きやすいように「六将制度」が作られたと王騎が言っています。

史実上では六大将軍の記録は無く、架空の設定だと思われますがキングダムの中で六大将軍として挙げられている武将達は実在したものがほとんどです。

では順を追って紹介していきます。

白起・・・「史記」白起・王翦列伝の中にでてくる実在した人物であり、六大将軍筆頭の大将軍。

白起についての詳しい情報は後述いたします。

王齕・・・昭襄王と荘襄王の2代に使えた実在の将軍。

長平の戦いでは白起の副将として大いに武功をあげますが、紀元前247年魏の信稜君率いる合従軍に蒙驁の副将として戦うも破れ史実上から姿を消します。

なお、王齕と王騎は同一人物ではないかとの説があります。

胡傷・・・実在の秦国の武将でしたが、どうやら文官から出世した知将のようです。

キングダムでも胡傷は六大将軍で唯一知略でのし上がったとあり、他の5人の将を動かしていたとまで噂されているほどです。

司馬錯・・・こちらも実在した武将で恵文王・武王・昭襄王の3代に仕え、楚や魏との戦いで功績をあげました。

摎(きょう)・・・摎だけは架空の人物と言わざるを得ません。

モデルは実在の秦国将軍・楊摎と思われますが、キングダムでは昭襄王(昭王)の娘であり女性として描かれていますのでちょっと似ても似つきません。

漫画の中では剣の才能が非凡で、軍才も天才的との評価があります。

また武神・龐煖を呼び寄せてしまうほどなので、武力的にも相当強かったと思われます。

実在の楊摎は昭襄王(昭王)の命を受け、韓・趙・魏などを攻め多くの武功をあげました。

王騎・・・キングダムでは「秦国の怪鳥」といわれる、物語中最強の武人として描かれている王騎ですが、史実上は少ししか記録がありません。

紀元前246年、政が始皇帝として即位したとき、蒙驁・麃公らと共に将軍に任じられます。

紀元前244年、蒙驁が韓を攻め13城を取るも、同年死没。

で終わりなので微妙な存在なのですが、本来の王騎の騎は「齮」の字でそれが王齕の字と似ていることや、王齕と王騎の記録が史書によって分かれており、二人同時に記録されていないなどのことがあり同一人物ではとの説があります。

また王騎は王齕の甥として描かれた作品もあり謎に包まれています。

史実上では六大将軍としての記録はありませんが、当時の秦国の民達はこれほどの活躍をしていた武将達を、きっと憧れをもって見ていたことでしょう。

 

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【キングダム】王騎を越え最強と言われた白起

司馬遷著の「史記」の中では、「敵の能力を図って作戦を変え、奇策を無限に繰り出した。彼の勢威は天下を振るわせた」と評価しているほど戦いを極めていたようです。

この奇策を無限に繰り出したとの「史記」における記述は、キングダムの中では築城という特異な能力として廉頗が振り返っています。

白起の武力については記されていませんが、軍を縦横無尽に操り、相手の心理と行動を読み尽くして戦わなければ、史記に出てくるような戦果は挙げられないでしょう。

後に白起は古代中国の名将を戦の神として讃える「武廟」に祀られることとなり、この時代の最強の武将として誰もが認めることとなります。

 

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【キングダム】史実で見る白起の強さは?

白起の功績はすさまじく生涯で約70の城を落としており、更にその残忍さは際立っています。

紀元前293年、韓・魏を攻めた際に24万人を斬首しています。

この時わずか2年足らずで魏の66にも及ぶ城を落としています。

紀元前273年、韓・魏・趙の兵を13万人斬首し、同年趙を攻めた際、2万人を黄河に沈めます

紀元前264年、更に韓を攻め5万人を斬首5城を落としています。

紀元前260年、秦に次ぐ戦力を持っていた趙に秦軍、いわゆる長平の戦いで40万人を生き埋めにしました。

ちなみに40万人って調べてみると岐阜市の人口ぐらいなんですけど、それを皆殺しって・・・。

なんかメチャクチャですよね。

 

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【キングダム】廉頗もやりにくいと思っていた?

廉頗対蒙驁となった山陽の戦いで蒙驁軍の副将・王翦と対峙した廉頗は白起のことを思い出します。

そして白起の戦い方を危険を冒さず、決して罠にかからず、相手の心理を読み、深追いしたらしっぺ返しを喰らう最もやりにくい相手だったと評します。

そして王翦が自然の地形を利用して築いた城をみて、白起の築城の能力について語りだします。

それは白起は築城の中でも土城(土塁をめぐらして築いた城)を得意とし、度々廉頗が苦しめられた過去でした。

築城の能力は稀で六大将軍の中でも白起だけに備わっており、それだけに白起は特異で深い軍略を有していました

 

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【キングダム】長平の戦いで40万人斬首?

紀元前241年、5カ国からなる合従軍が秦に攻め込みます。

主人公・信の前に立ちふさがる趙国の凶将・万極

今回の万極軍は長平の戦いで遺族・遺児になった者のみで構成されているという。

そして万極は「見えるか・・・我ら遺児に宿る・・・長平の怨念が・・・」と信に問いかけます。

いったい彼がいう長平の戦いとはどんなものだったのか。

長平の戦いは紀元前260年秦と趙の間で行われた、古代中国史上最大規模の戦いです。

当時秦に度々攻めこまれていた韓に対して趙が助けに入ったことで、当時の昭襄王(昭王)が激怒し王齕に趙の討伐を指示します。

それを長平の城にて迎え撃った廉頗は防御体制を整え、持久戦に持ち込む作戦にでます。

この状態が2年ほど続き廉頗が狙ったとおり、さすがの秦軍にも疲れが見え始めたころ昭王は白起にどうしたら良いか尋ねます。

白起は「廉頗は難しいですが、若い将である趙括なら手はあります。」と伝えると秦国の宰相が趙へ間者を送り込み悪い噂を流します。

それを真に受けた趙の孝成王は重臣・藺相如の助言も聞かず廉頗を解任し、趙括を総大将に任命してしまします。

それを知った昭王は秦軍の総大将を白起、副将を王齕に換え戦いを挑みます。

趙軍45万に対し秦軍はその半数程度だったといわれていますが、白起は巧みに策を講じ趙軍を城から誘い出します。

廉頗の持久戦なら勝てたものを、趙括は城から打って出たため白起に討たれてしまいます

 

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【キングダム】白起が敵兵を惨殺する理由

趙括の死により趙兵が降伏しますが、その40万の投降兵を白起は生き埋めにしてしまいます。

にわかに信じられませんが、1995年長平古戦場の発掘調査が行なわれ大量の人骨が出土していることから、その数は定かでないにしろ多くの兵が死んでいったことには間違いないようです。

白起が多数の兵を惨殺したには理由があり、40万もの投降兵に与える食糧などなく、しかし野に放てば趙国に戻り兵力が回復することは明らかでした。

やるかやられるかのこの時代において、白起の決断は仕方なかったのかもしれません。

ただし少年兵240人だけは命を助けられ趙へ戻されてとのことですが、先ほど出てきた万極軍はその時の少年兵で構成されているようなのでその憎悪はとんでもないと思われます。

 

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【キングダム】強さのあまり時の宰相から反感を買う?

白起は長平の戦いのいきおいそのままに、趙の都・邯鄲へ進軍しようとしましたが、秦の宰相に止められてしまいます。

白起のあまりの活躍に自らの地位を脅かされかねない、と反感を買うことになってしまったのか宰相の決断は趙との和睦を選び、昭王を巧みに説き伏せてしまいます

この休戦は長平の戦いにおいて多大な数の趙兵を犠牲にした、白起にとって受け入れられるものではなく以後病気と称し引きこもってしまいます

 

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【キングダム】無敗のまま自害へ

廉頗が涙したという当時の英雄・白起はなぜ自害したのでしょうか?

昭王は再び趙の首都・邯鄲に攻め込みますが、魏の信稜君・楚の春申君という戦国四君が趙の援軍に入り大敗北を喫してしまいます。

昭王と宰相は白起に出陣を促しますが、宰相に不信感を抱いていた白起は昭王の要請も断り続けてしまいます

そしてある時昭王から1本の剣が届きます

それは「自害せよ」、死の宣告です。

日本の武士がそうであったように、この時代身分の高いものは自ら命を絶つことが慣わしでした。

死の宣告を受けた白起はその理由を自問自答したといいます。

その時長平の戦いで40万もの人を生き埋めにしたことを思い出し、「私は天に対して罪を犯したのだ」と嘆いた、と伝えられています。

当時の庶民たちは白起の死を惜しみ、各地に白起を祀る「廟」を建てたと史書は伝えています。

 

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【キングダム】もし政の時代に生きていれば信の活躍はなかった?

六大将軍筆頭・白起が政の時代に生きていたなら・・・。

山陽の戦場で廉頗は王翦を観察し己を第一とした戦い方に、かつての六大将軍とは違い信用の置けない武将と彼を評価します。

いかに強くても英雄にはなれない・・・。

無類の強さを持ち、しかも英雄としてのカリスマ性を持ち合わせた白起がいたら、もっと早く中華統一は早く達せられたかもしれません。

ただ実際白起が仕えた昭王はキングダムの中では、中華に恋焦がれる夢追い人と王騎に称されていますが、政はしっかりと中華への路をとらえていると表現されています。

昭王の時代大量虐殺をした白起はある意味自由に振舞え、それがキングダムの中では六大将軍制度として描かれているようですが、実際に中華を統一した始皇帝は全てを自らが管理する制度を作り上げており、だからこそ言語も文化も習慣も違う国々を統一できたとされています。

あくまで白起はキングダムの前時代に活躍した武将であり、政にはやはり信が一番必要ではないでしょうか。

今後キングダムの中でも、政が六大将軍制度を復活させるかどうかは見どころですね。

 

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まとめ

以上、歴史上において秦国最強の大将軍・白起について紹介してまいりました。

秦国の英雄として「武廟」に祀られた白起は、やがてその名は尊敬の対象から消えていきます

これは後の世の人々が、長平の戦いにおいて40万もの投降した兵を生き埋めにした行為が軍神としてふさわしくない、と批判したせいです。

しかしながら昭王の時代、白起が活躍することで中華統一の前段階まで進むことができたのは間違いありません。

偉大な王と武将が連続して出現した奇跡が、中華統一を可能にさせたのでしょう。

この記事のまとめ
  • 白起は約70の城を落とした
  • 長平の戦いで40万人を生き埋め
  • 白起の築城能力は特異だった
  • 昭王から自害の命を受けた
  • 白起の強さが中華統一を加速
  • 後世に残る白起の評価は賛否両論
あいり
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