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【キングダム】李牧は史実でどんな将軍なのか?守備の達人です。匈奴10万を破り、秦から領地も奪還!

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李牧は史実でどんな将軍なのか

結論から言うと、李牧は史実では「守備の達人」と呼ばれた将軍です。匈奴10万を伏兵で退け、秦一強の時代に唯一、秦から領地を奪い返しました。

作中の李牧はかなり脚色されています。史実との違いも並べていきます。

この記事でわかること

  • 雁門関で匈奴10万を破った戦い方
  • 一度失脚して復帰したときの条件
  • 史実で李牧がやっていないこと(作中との違い)
  • 秦から領地を奪い返した唯一の将である理由
  • 味方に殺されるまでの経緯

雁門関の長官だった時代

李牧はもともと、北方の国境にある雁門関の長官でした。

ここは騎馬民族匈奴からの侵略を防ぐ最重要地点です。そして李牧が選んだのは徹底した守備でした。

守れば侵略は防げます。ただし同時に、匈奴を討つこともできません。

やがて攻めないことへの不満が家臣や兵士から出はじめます。趙の中央からも攻めるよう要請が来ました。

それでも李牧は、守備を崩しませんでした。

一度、長官を解任される

当時の趙王孝成王は、一向に攻めない李牧の任を解き、新しい長官を立てます。

ところが結果は最悪でした。匈奴は攻めてきた趙軍を一蹴し、逆に趙へ侵攻してきたのです。

慌てた孝成王は、李牧に復帰を要請します。李牧が出した条件はひとつでした。

今後、自分のやり方に一切口を出さず、すべてを任せること。

匈奴10万を破った戦い方

復帰した李牧は、侵攻してきた匈奴に対して一度あえて攻めて、わざと負けます。

李牧を弱いと判断した匈奴は、一気に攻め込んできました。

そこで李牧は伏兵を複数配置し、左右から挟撃。10万人規模の匈奴軍を退けました。

この戦い以降、匈奴は趙を侵略しなくなったとされています。

僕はこう読む

この一連の流れは、李牧という人の全部が入っていると思います。
何年も攻めずに守り続け、味方から突き上げられ、王に解任され、それでもやり方を変えなかった。
——そして戻るときに出した条件が「口を出すな」です。実績で信用させたのではなく、失敗を見せてから戻ったわけです。
さらに復帰後、最初にやったのがわざと負けることでした。
守るために負け、負けるために攻める。勝ち負けの見え方そのものを道具にしている人です。
このやり方が、後に桓騎を倒す形とまったく同じであることに注目してください。李牧は生涯、同じ一手で勝っています。

作中での李牧

『キングダム』の李牧が名を上げるのは、王騎戦です。

秦が韓を攻めている隙に趙が挙兵し、秦は元六将の王騎将軍を総大将に立てました。秦軍有利のまま最終局面へ進み、王騎と龐煖(ほうけん)の一騎打ちの最中——李牧率いる趙軍の伏兵が現れます。

王騎は伏兵の存在を読んでおり、到着する前に決着をつける作戦でした。ところが李牧は、その読みよりも早く軍を到着させます。

伏兵の登場で秦軍は退却せざるを得なくなり、王騎は龐煖に討たれました。

しかもこのとき李牧は、匈奴10万を滅ぼした直後に参戦しています。相当な軍略家であることが分かる導入でした。

作中との違い

ここは知っておくと作品の見え方が変わります。

できごと 作中 史実
王騎の死 李牧の伏兵が決め手 死因ははっきりしていない
劇辛の討伐 李牧 龐煖
合従軍の指揮 李牧 龐煖
邯鄲攻めの秦側 信・蒙恬(もうてん)・王賁(おうほん)が活躍 李信・蒙恬・王賁の名は出てこない
七国の勢力 それなりに拮抗 すでに秦一強。六国との戦力差は相当なもの

作中で李牧の手柄になっている大きな戦績のうち、いくつかは史実では龐煖のものです。

それでも史実の李牧は別格だった

すでに秦一強だったこの時代、秦の猛攻をまともに跳ね返せる国はほとんどありませんでした。

その中で秦の侵攻を止めたのが、楚の項燕趙の李牧の二人だけです。

そして秦から領地を奪い返したのは、李牧ただ一人でした。

脚色を差し引いても、秦にとっての難敵だったことは間違いありません。

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武力はどうだったのか

作中の李牧は、歴戦の武将たちに武将としてのオーラを感じさせる人物として描かれています。

ただし剣を抜いて相手と対峙した場面は数回しかありません。しかも、そのどれも武力がはっきり分かる描かれ方ではありませんでした。

まともに刃を交えたと言えるのは、春申君との密会の際に信と出会い、興味本位で剣を合わせた場面くらいです。

そして史実には、李牧の武力に関する記載がありません。残っているのは軍師としての戦歴だけです。

宜安の戦いで桓騎を破る

史実で有名な対秦戦のひとつが宜安の戦いです。

鄴陥落から約2年後、桓騎は秦王の命で趙へ出兵し平陽を攻略。趙兵およそ10万を斬首にします。翌年には宜安城も攻略しました。

これに対し、大将軍に任命された李牧は宜安付近へ布陣。城壁を作って籠城します。

これは長平の戦いで廉頗(れんぱ)が王齕(おうこつ)に対して行った作戦と同じでした。

桓騎は李牧を誘い出すため、肥下という城を攻め、兵士や民を無残なやり方で惨殺します。味方が蹂躙されれば出てこざるを得ないはずだ——という読みでした。

李牧は一切乗りませんでした。

動かない趙軍に、本陣に残っていた桓騎軍は完全に油断します。桓騎を含む大半が肥下におり、宜安に残っていたのはわずかでした。

そこへ李牧が一気に攻め込みます。虚を突かれた桓騎は急ぎ戻りますが、すでに制圧されたあと。兵糧を置いていた宜安城を取り戻さなければ負けるため、無謀な攻めに出て敗北しました。

なお史実では、敗れた桓騎は秦へ戻らず燕へ逃亡し、そのまま表舞台から姿を消しています。樊於期(はんおき)と名乗って秦王暗殺に協力したという説もありますが、詳しい記述は残っていません。

味方に殺されるまで

鄴攻略から7年後、秦は趙の王都邯鄲(かんたん)を落とすべく、王翦(おうせん)・楊端和(ようたんわ)・羌瘣(きょうかい)の連合軍を出します。

趙側は李牧が司馬尚を呼び寄せ、迎撃態勢を取りました。

李牧と司馬尚が守る邯鄲は、正面から落とせるものではありません。そこで王翦が実行したのが計略でした。

郭開の讒言

王翦は趙の家臣郭開を買収し、「李牧と司馬尚が謀叛を企んでいる」と趙王に讒言させます。

当時の趙王は嘉太子ではなく、弟の遷——十代目・幽繆王でした。

この王は、暗君と呼ばれるにふさわしい決断をします。国の存亡がかかった戦いの最中に、郭開の讒言を信じて李牧と司馬尚を更迭しようとしたのです。

李牧はこれを拒否。従わない二人に、幽繆王は刺客を送りました。

司馬尚は逃れて趙を脱出。李牧は捕らえられ、暗殺されます。

そして3か月後

後任となったのは趙葱と顔聚という武将でしたが、李牧のいない趙は王翦の敵ではありません。あっさり撃破されます。

李牧暗殺から3か月後、邯鄲は陥落。幽繆王は捕らえられ、趙は滅びました。

僕はこう読む

趙という国は、とにかく王に恵まれませんでした。
八代目・孝成王は長平の戦いで大将を廉頗から趙括に代え、40万人を生き埋めにされて国力を決定的に落としています。
そして十代目・幽繆王は、国が滅びる寸前に自国最強の将を殺しました。
——面白いのは、その孝成王もかつて李牧を一度クビにしていることです。
李牧の生涯は、同じ失敗を二度される話だったことになります。一度目は戻れた。二度目は戻れなかった。
王翦が正面からぶつからなかったのは、趙という国のいちばん弱い場所を知っていたからだと思います。それは城壁でも兵力でもなく、王でした。

まとめ

史実の李牧は「守備の達人」と呼ばれた将軍です。

その評価を作ったのが、匈奴との一戦でした。

  • 元は北方国境・雁門関の長官で、攻めずに守り続けた
  • その姿勢を不満に思われ、孝成王に一度解任された
  • 後任は匈奴に一蹴され、逆に侵攻を許した
  • 復帰の条件は「自分のやり方に口を出さず全てを任せること」
  • わざと負けて油断させ、伏兵の挟撃で匈奴10万を退けた

僕はこう読む

この流れに、李牧という人の全部が入っていると思います。
何年も攻めずに守り、味方から突き上げられ、王に解任され、それでもやり方を変えなかった。
そして戻るときに出した条件が「口を出すな」でした。

秦一強の時代に領地を奪い返したのは李牧ただ一人です。その男が最期は郭開の讒言を信じた幽繆王の刺客に殺されました。これを趙という国が王に恵まれなかった不運と読むか、王翦の計略が完璧だったと読むかで、あの暗殺の意味が変わってきます。

——あなたは李牧が味方に殺された結末を、趙が王に恵まれなかった不運だと思いますか。それとも、王翦の計略が完璧だったからだと思いますか。よければコメントで、どちらに近いか教えてください。

よくある質問

李牧は史実と作中で経歴がずれる部分があります。雁門関の時代から順に、実際の記録を確認しておきます。

Q. 史実の李牧はどんな将軍でしたか
A. 「守備の達人」と呼ばれた将軍です。北方民族の侵攻を防ぎ続け、秦の侵攻も止めました。

Q. 匈奴をどうやって破ったのですか
A. 一度わざと負けて弱いと思わせ、攻め込んできたところを複数の伏兵で左右から挟撃しました。10万人規模の軍を退けています。

Q. 作中と史実で違うところはありますか
A. あります。史実では劇辛の討伐も合従軍の指揮も龐煖のもので、王騎の死因もはっきりしていません。邯鄲攻めでも李信・蒙恬・王賁の名は出てきません。

Q. 李牧はどれくらいすごいのですか
A. 秦一強のこの時代に侵攻を止められたのは楚の項燕と李牧だけで、秦から領地を奪い返したのは李牧のみです。

Q. 李牧の武力はどうだったのですか
A. 史実に武力の記載はありません。作中でも剣を交えた場面は数回で、信と刃を合わせたのが目立つ程度です。

Q. 李牧はどうやって死んだのですか
A. 王翦が郭開を買収し、謀叛の讒言をさせました。それを信じた幽繆王が刺客を送り、李牧は捕らえられて暗殺されています。

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最終更新:2026年9月6日

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